TBS「これだけ多くが杉田さんの意図と全く違う受けとめ方をするのは表現の欠如、配慮不足では?」

■ニュースメディア

TBS(JNN)

 

■ニュースタイトル

「これだけ多くが杉田さんの意図と全く違う受けとめ方をするのは表現の欠如、配慮不足では?」

 

■ニュース掲載・報道日

2018年9月26日

 

■フェイク理由・ソースURL・その他

「限られた税金を公平に使いましょう」ということを「生産性」という用語を使っただけで、魔女狩りのようなマスコミと野党とプロ市民による人民裁判的な吊し上げがおこなわれた。「意図と全く違う」というなら、その「意図」を分かり易く伝えるのが、メディアの役割なのでは?

■報道内容

-------------- Share News Japan 2018.9.26

LGBT巡る記事に、ホラン千秋

「これだけ多くが杉田さんの意図と全く違う受けとめ方をするのは、そもそもの表現の欠如、配慮不足では?」

 

▼ネットのコメント

・表現の欠如、配慮不足はそのとおり。であればなぜメディアはその誤解を解く報道をしないの? なぜ言葉を切り取って書き手の意図を捻じ曲げるの?

 

・杉田議員の意図と違う受け止め方をした人が多い訳ではなく、杉田議員が使用した「生産性」という言葉ひとつを取り上げて騒ぐ、少数の人達の声が大きいだけですね。

 杉田さんが国連人権委で、ヒューマンライツナウという人権屋に反論している事が不都合な連中がね。

 

・そもそも最初から正しく理解して受け止める気は無いんだから救いようが無い

 

・マスゴミは、何故杉田議員に取材もせず弁明の機会を与えぬ欠席裁判で、批判をするのか?これを報道とは言わない!

■検証記事

--------------  アゴラ 2018.8.4

NHK、朝日、文春が揃って杉田水脈の“人権蹂躙”

 

(前略)

① NHKは8月3日のニュースウォッチ9で「LGBTが生きる価値はないという杉田発言」というような放送を、相模原の施設での大量殺人事件とからめてした。これを受けて、杉田氏の家族に危害を加える脅迫がされているような事態になっているようだが、「LGBTが生きる価値はない」というような趣旨にどう読んだらなるのだろうか。多くの人が放送を聞いて背筋が寒くなったと感じている。

 

② 朝日新聞社が運営しているAERAオンラインでは、杉田議員のいかにも人相の悪そうな写真を選び出して(さらに加工したかもしれないが)掲載し、『幸せに縁がない』人相だという観相学の専門家の記事を載せた。容貌をもとにこのような人格攻撃をするとはあきれ果てた仕業だ。さすがに、朝日新聞も慌てて、即刻、下記のようなお詫び記事をネット上で出したが、本来なら新聞紙上でも不祥事として取り上げるべきものだろう。かつての「週刊朝日」誌上における橋下徹氏への人権侵害と並ぶ不祥事だ。

 

「AERAオンライン限定記事」でおわび

アエラ編集部は7月27日夜、「杉田水脈衆院議員の顔は『幸せに縁がない』?観相学で見てみたら…」と題する記事をAERA dot.で配信しましたが、内容が不適切なものであったため、同28日未明に全文を削除しました。杉田議員と関係者の皆さまにおわびいたします。

 

③ 週刊文春は、杉田水脈代議士について、「育児丸投げ」と書いてつり広告の見出しにもしたが、娘が小学生のときは普通に共働き世帯としての子育てをしていたが、12歳のときに西宮市役所を辞めて政治家になったので、実家に住ませて実父母に預けつつ、会期中も、週末に選挙区に帰るたびに会っていたというのだが、これが「育児丸投げ」なのか。

 これでは、同様のお母さんたちは「週刊文春」公認で育児をなにもしなかったと罵声を浴びせられることになるが、いいのか。生産性うんぬんは誤解を招きやすそうというだけだが、こっちは、本物のスキャンダラスな決めつけだ。

 

④ 神戸新聞は、杉田氏が市役所時代に市民ととっくみあいになりかかったと非難したが、私が聞いている事実はこうだ。保育所民営化を議論する健康福祉委員会で、中核派の活動家を支援するために、全国から仲間が集まり、傍聴席に座わり、ヤジを飛ばしていたので、係長だった杉田水脈が傍聴席に「ヤジは辞めてください!」と注意した。

 すると、委員会終了後、傍聴席にいた活動家に囲まれ、「お前はなんの権限があってあんなことを言ったんだ!」「ルールを守らないから注意したのみ」「なんだと!貴様!」と、掴み合いになりそうなところを上司に押さえられたという事件のことらしい。あとで、共産党系の労組から、「あれは中核派やから、相手にしたらあかん」といわれたという事件で以前から「武勇伝」として知られていたものである。

 もともと杉田氏が政治を志したのは、市役所のこうした長いものに巻かれろ式の弱腰の事なかれ主義に反発して、行政改革を標榜していたみんなの党の江口克彦参議院議員(当時みんなの党)に相談したのがきっかけと聞いている。

 こういうのを地元の事情をよく知る新聞が否定的に取り上げてリンチするだからあきれたものだ。あたかも、一般市民が相談か何かにきたのに暴力をふるったような印象になっている。私は知らなかったが、神戸新聞は蓮舫事件のときに、二重国籍など赤信号無視程度のことと書いていたそうだ。さもありなんということか。

■検証記事

-------------- BLOGOS 2018.7.28

「LGBTの生産性発言」の真意を考える

 (前略)

 先入観を持たない素直な目で見た時に、人間の個体差は「個性」の違いに過ぎないが、その「個性」の違いに優劣を付けようとする思考が生じた時点で差別が生まれる。

 差別というものは、個人の思い込みから派生するものであり、これが差別ですというような明確な基準はなく、あくまでも個人の人為的な感情によって作られた代物に過ぎない。

 

 考えるに、リベラル左翼(自分勝手な左翼の意)の言うところの「差別」というのは、差別的なことを口に出すか出さないかの違いがあるだけで、心の内面には差別心が有っても構わないということになってしまう。

 差別的な発言を行った人は差別主義者で、差別的なことを思っているだけの人は差別主義者ではないと言うのであれば、それは偽善と言うしかない。

 

■心の中にある「差別感情」こそが問題

 

 例えば、あなたの目の前に、男性と女性がいたとして、子供を産めない男性は生産性が無く、子供を産める女性は生産性が高いなどとは思わないだろう。しかしながら、それは厳然たる事実である。実際に男性は子供が産めない。しかし、だからといって、そんなことを差別だと言う人はいない。なぜいないのかと言えば、そこに差別心が介在していないからだ。男性は子供が産めない、しかし女性は子供が産める。それは誰もが認めている男女の肉体的違い(=区別)であるので、差別とは無縁なのである。

 「LGBT」もこれと同じで、男女間では子供が作れるが、同性愛者間では基本的に子供は作れない。そのことを差別心なく当たり前の違いだと素直に受け入れることができる人であれば、差別にはならない。それを差別だと思うのは、その人物の心の中に「LGBT」に対する差別感情が存在するからに他ならない。

 

 杉田氏は著書『なぜ私は左翼と戦うのか』で、こう述べられている。

 

>男性に子どもが産めるのでしょうか。赤ちゃんに授乳ができるのでしょうか。これらは絶対に不可能です。こうした性差による役割分担は神様がおつくりになったもので、人間にそれを否定することはできません。

 

 何年か前に「女は子どもを産む機械」発言が問題になったことがあったが、物は言いようで、女性自身が女性の役割として言えば、常識的な意見と受け取られる。

 おそらく杉田氏の言っている「生産性」も、ごく当たり前の常識的な話をしているつもりだったのだろうと思う。

 先述した通り、男女間では子供が作れるが、同性愛者間では基本的に子供は作れない。その当たり前のことを認識した上での発言だったのだろう。

 子供を作れないLGBTのカップルに税金を使う必要はないという意味ではなくて(実際に税金は分け隔てなく使われている)、必要性があると思えないことに税金を使用することは納税者の理解を得られないという意味だったのだろう。

 

 人間の個体の違いを認めることは差別ではない。その違いに優劣を付けることが差別なのだ。「LGBTは差別されている」という思いこそが差別の出発点なのである。

■参考記事

----------------------  備忘 杉田水脈氏の寄稿文(全文) 2018.7.30

最初に。

わたしは杉田水脈氏が言っていることに違和感は持たない。

 (以下は、Facebookでシェアされていたものから拝借しています。)ーーーー

 

この1年間で「LGBT」(L=レズビアン、G=ゲイ、B=バイセクシャル、T=トランスジェンダー)がどれだけ報道されてきたのか。新聞検索で調べてみますと、朝日新聞が260件、読売新聞が159件、毎日新聞が300件、産経新聞が73件ありました(7月8日現在)。キーワード検索ですから、その全てがLGBTの詳しい報道ではないにしても、おおよその傾向が分かるではないでしょうか。

 朝日新聞や毎日新聞といったリベラルなメディアは「LGBT」の権利を認め、彼らを支援する動きを報道することが好きなようですが、違和感を覚えざるをません。発行部数から言ったら、朝日新聞の影響の大きさは否めないでしょう。

 最近の報道の背後にうかがわれるのは、彼ら彼女らの権利を守ることに加えて、LGBTへの差別をなくし、その生きづらさを解消してあげよう、そして多様な生き方を認めてあげようという考え方です。

 しかし、LGBTだからと言って、実際そんなに差別されているものでしょうか。もし自分の男友達がゲイだったり、女友達がレズビアンだったりしても、私自身は気にせず付き合えます。職場でも仕事さえできれば問題ありません。多くの人にとっても同じではないでしょうか。

 そもそも日本には、同性愛の人たちに対して、「非国民だ!」という風潮はありません。一方で、キリスト教社会やイスラム教社会では、同性愛が禁止されてきたので、白い目で見られてきました。時には迫害され、命に関わるようなこともありました。それに比べて、日本の社会では歴史を紐解いても、そのような迫害の歴史はありませんでした。むしろ、寛容な社会だったことが窺えます。

 どうしても日本のマスメディアは、欧米がこうしているから日本も見習うべきだ、という論調が目立つのですが、欧米と日本とでは、そもそも社会構造が違うのです。

 LGBTの当事者たちの方から聞いた話によれば、生きづらさという観点でいえば、社会的な差別云々よりも、自分たちの親が理解してくれないことのほうがつらいと言います。親は自分たちの子供が、自分たちと同じように結婚して、やがて子供をもうけてくれると信じています。だから、子供が同性愛者だと分かると、すごいショックを受ける。

 これは制度を変えることで、どうにかなるものではありません。LGBTの両親が、彼ら彼女らの性的指向を受け入れてくれるかどうかこそが、生きづらさに関わっています。そこさえクリアできれば、LGBTの方々にとって、日本はかなり生きやすい社会ではないでしょうか。

 リベラルなメディアは「生きづらさ」を社会制度のせいにして、その解消をうたいますが、そもそも世の中は生きづらく、理不尽なものです。それを自分の力で乗り越える力をつけさせることが教育の目的のはず。「生きづらさ」を行政が解決してあげることが悪いとは言いません。しかし、行政が動くということは税金を使うということです。

 例えば、子育て支援や子供ができなカップルへの不妊治療に税金を使うというのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。にもかかわらず、行政がLGBTに関する条例や要項を発表するたびにもてはやすマスコミがいるから、政治家が人気とり政策になると勘違いしてしまうのです。

 LGBとTを一緒にするな

 ここまで私もLGBTという表現を使ってきましたが、そもそもLGBTと一括りにすることが自体がおかしいと思っています。T(トランスジェンダー)は「性同一性障害」という障害なので、これは分けて考えるべきです。自分の脳が認識している性と、自分の体が一致しないというのは、つらいでしょう。性転換手術にも保険が利くようにしたり、いかに医療行為として充実させて行くのか、それは政治家としても考えていいことなのかもしれません。

 一方、LGBは性的嗜好の話です。以前にも書いたことがありますが、私は中高一貫の女子校で、まわりに男性はいませんでした。女子校では、同級生や先輩といった女性が疑似恋愛の対象になります。ただ、それは一過性のもので、成長するにつれ、みんな男性と恋愛して、普通に結婚していきました。マスメディアが「多様性の時代だから、女性(男性)が女性(男性)を好きになっても当然」と報道することがいいことなのかどうか。普通に恋愛して結婚できる人まで、「これ(同性愛)でいいんだ」と、不幸な人を増やすことにつながりかねません。

 朝日新聞の記事で「高校生、1割が性的少数者」という記事がありました(3月17日付、大阪朝刊)。三重県の男女共同参画センターが高校生1万人を調査したところ、LGBTは281人で、自分は男女いずれでもないと感じているXジェンダーが508人。Q(クエスチョニング=性的指向の定まっていない人)が214人いて、合わせて1003人の性的少数者がいたというものです。それこそ世の中やメディアがLGBTと騒ぐから、「男か女かわかりません」という高校生が出てくる。調査の対象は思春期の不安定な時期ですから、社会の枠組みへの抵抗もあるでしょう。

 最近の報道でよく目にするのは、学校の制服問題です。例えば、「多様性、選べる制服」(3月25日づけ、大阪朝刊)。多様な性に対応するために、LGBT向けに自由に制服が選択できるというものです。女子向けのスラックスを採用している学校もあるようです。こうした試みも「自分が認識した性に合った制服を着るのはいいこと」として報道されています。では、トイレはどうなるのでしょうか。自分が認識した性に合ったトイレを使用することがいいことになるのでしょうか。

 実際にオバマ政権下では2016年に、「公立学校においてトランスジェンダーの子供や児童が“心の性”に応じてトイレや更衣室を使えるようにする」という通達を出しました。先ほども触れたように、トランスジェンダーは障害ですが、保守的なアメリカでは大混乱になりました。

 トランプ政権になって、この通達は撤回されています。しかし、保守派とリベラル派の間で激しい論争が続いているようです。Tに適用されたら、LやGにも適用される可能性だってあります。自分の好きな性別のトイレに誰もが入れるようになったら、世の中は大混乱です。

 最近はLGBTに加えて、Qとか、I(インターセクシャル=性の未分化の人や両性具有の人)とか、P(パンセクシャル=全性愛者、性別の認識なしに人を愛する人)とか、もうわけが分かりません。なぜ男と女、二つの性だけではいけないのでしょう。

 オーストラリアやニュージーランド、ドイツ、デンマークなどでは、パスポートの性別欄を男性でも女性でもない「X」とすることができます。LGBT先進国のタイでは18種類の性別があると言いますし、SNSのフェイスブック・アメリカ版では58種類の性別が用意されています。もう冗談のようなことが本当に起きているのです。

 多様性を受けいれて、様々な性的指向も認めよということになると、同性婚の容認だけにとどまらず、例えば兄弟婚を認めろ、親子婚を認めろ、それどころか、ペット婚、機械と結婚させろという声が出てくるかもしれません。現実に海外では、そういう人たちが出てきています。どんどん例外を認めてあげようとなると、歯止めが効かなくなります。

 「LGBT」を取り上げる報道は、こうした傾向を助長させることにもなりかねません。朝日新聞が「LGBT」を報道する意味があるのでしょうか。むしろ冷静に批判してしかるべきではないかと思います。

 「常識」や「普通であること」を見失っていく社会は「秩序」がなくなり、いずれ崩壊していくことにもなりかねません。私は日本をそうした社会にしたくありません。

------------------  引用終わり

 

(※ 画像は WEZZY 2018.7.31より)