報道しない自由

報道しない自由」とは、「国民の知る権利」を満たす役割として報道機関に認められている「報道の自由(日本国憲法第21条)」を盾に「報道するのが自由なら報道しないのも自由」と称して「いかに国民が知るべき内容であっても、報道機関が知らせたくないと考えたものを報道せずに隠蔽する行為」のスラングです。

 

 

ある事象に対して「一方的な見解だけを報じる」のは「報道の自由」ですが、「放送法第4条で求められている『客観的な事実』や『背景』『異なる見解』を報じない」のが「報道しない自由」です。

特にテレビ地上波放送における報道内容は、著しく一方向に傾き「事実報道」ではなく「主張」に近くなっています。

2017年7月10日 加計学園獣医学部新設問題に関する国会閉会内審査にて

 加戸守行前愛媛県知事は「(前川前次官等文科省によって) 歪められた行政が正された」と証言されました。

しかし、産経新聞以外のメディアはこれを報じず前川前次官の発言だけを一方的に報じました

これが「報道しない自由」です。

同年7月25日 参議院予算委員会にて青山繁晴議員による「加戸さんが居ないかのごとく扱われた」との閉会内審査についての報道への指摘に対して、加戸前知事は

 

『報道しない自由』があるのも『有力な手段』、『印象操作』も『有力な手段』」と応えられました。

ρ(・・。)  19:30頃から加戸前知事の発言  (KAZUYA Channel)

さて、何のための「有力な手段」なのでしょう?

 

 

報道機関が情報を報道しないことについて

杉村楚人冠は、「故意に不実の事を捏造するのも罪悪であるが、公にすべき事実を差し押さえて公にせぬのも罪悪たることは、相同じ」と看破しました。

 

 

鈴木寛は、「報道の自由」と「報道しない自由」は表裏一体であると指摘し、「これを知ることはインテリジェンスを鍛えるために第一に重要なことだ」と言いました。「国民の知る権利のために報道機関が有する報道の自由」は、時には「報道機関が報道しないことによって国民に知らせないことも自由になってしまう」という危険性をも有しているのです。

 

虎ノ門ニュースに出演された「行列のできる法律相談所」でお馴染みの北村晴男弁護士

ρ(・・。) 普段は冷静沈着な北村弁護士でさえ、マスコミ報道の偏向性を強く非難されました。

A,B社会的な論争が2つ起きていて、Aの根拠は十分詳しく報道して、Bを支える論拠とか根拠とか事実についてはほとんど報道しない。そういう『報道しない自由』は、絶対日本の民主主義の中では許してはいけません。
 もしこれを許すと、裁判でも一緒なんですけどね、こちらだけに有利な証拠だけを見たら裁判所はこっちを勝たせます。国民から見ても、こちらだけ有利な証言だけを見せると『こっちが正しいに決まってる』というふうに判断します。これは民主主義を歪めることになりますから、公器としての報道機関は絶対にしてはいけないんですよ。

 両方の論拠を十分に提示して、国民に判断させる。社説で自分の意見を言うのは構わないんです。

加計報道の類例を以下に引用します。

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例えば、「特定秘密保護法は国民の知る権利を脅かすのではないか」との一定の見解を示すのは報道する自由だが、見解だけ示して「なぜ知る権利を脅かすのか」「同法は何故必要なのか」を説明しないのが報道しない自由である。また、「第二次世界大戦中の慰安婦問題」だけを大々的に報じるのに、「朝鮮戦争の洋公主問題」や「べトナム戦争の従韓慰安婦問題」を一切報じないのは、まさに報道しない自由の権化であると言える。

 

その他にも「なぜ原発は必要なのか」「福島第一原発と型や構造が違う原発の危険性を示す根拠はないのではないか」と言った事実は報じられていない。(「放射脳」や「危険厨」も参照)これは経営合理化の影響で広告費という合法賄賂が目減りし、スポンサーとしての影響力を失った電力会社にとって代わってガス会社や石油会社が影響力を振るうようになったからではないかと推察される。このように報道しない自由は保身や社益だけを考えて行われることが多い。

 

報道しない自由は国民の知る権利の侵害である」「報道しない自由は国民の知る権利を萎縮させる」という批判の声も上がってきているが、当然メディアは報道しない自由によってそういった批判を一切報じない。